短編小説「生活」

イヤフォンは、玄関で外すことにしている。
鞄の中で、鍵より先に白い充電ケースが指に触れる。似た大きさでもないのに、いつもそれをつかんでしまう。探している間に廊下の照明が消える。足を一歩動かすと、またつく。誰も見ていないのに、少しだけ恥ずかしい。
部屋に入って明かりをつける。買ってきたものを冷蔵庫へ入れ、イヤフォンをケースに戻す。右と左がそれぞれの場所に収まり、小さなランプがつく。蓋を閉じると、換気扇の音が気になった。
冷凍しておいたご飯を温める。窓の向こうで、隣の建物の階段を誰かが下りていく。
その頃のわたしは、ひとりでいることを、特に誰にも説明しなくてよかった。
彼からの返事が来ないので、音楽をかけた。
一曲終わるたびに画面を見る。通知はなく、次の曲が始まる。好きな曲ばかり入れたはずなのに、何を聴いたのか、ほとんど覚えていなかった。
知り合って三度目の食事のあとだった。駅までの道で、わたしのイヤフォンのケースが鞄から落ちた。拾ってくれた彼は、何を聴くの、と聞いた。
曲名を言っても知らないようだったので、イヤフォンの片方を渡した。
再生すると、彼が半歩、隣へ寄ってきた。
「片方だけ?」
「わたしも聴くから」
Bluetoothだから、そこまで近づかなくても途切れたりはしない。でも、わたしは離れなかった。
肩と肩が触れないようにするには、少し力が要った。歌の途中で感想を言われたら困ると思い、何も言われないのも不安で、わたしは音量の数字を見ていた。
電車が来ると、彼はイヤフォンを外し、わたしの手のひらに載せた。
「さっきの、送って」
曲を、という意味だった。それだけのことを、帰り道に何度も思い出した。
わたしは音楽を止め、イヤフォンを外した。窓辺の小瓶には、先週、自分で買ったマーガレットが挿してあった。一本抜いて、顔の前に持ってきた。
「大嫌い」
白い花びらを一枚摘んで小皿に置いた。
「大好き」
もう一枚、その隣に置いた。
あの人がわたしを、ではない。わたしが、あの人を。
「大嫌い」
返事ひとつで、こんなふうに夜を長くする人なんか。
「大好き」
わたしの手のひらにイヤフォンを載せた、彼の指を思い出した。落とさないように、わたしが指を閉じるまで待ってくれた。
一枚ずつ摘んでいく。嫌いと言うたびに少しせいせいして、好きと言うたびに、誰にも聞かれていないか気になった。
最後の一枚に触れたところで、次にどちらを言う番だったか、わからなくなった。いや、わからなくなったということにした。
スマホが震えた。わたしは丸裸にされたマーガレットを持ったまま画面に手を伸ばした。
ようやく届いた返事は、「明日の朝に聴く」だった。
今じゃないんだ、と思った。すぐ、明日の朝にはわたしが選んだ曲を聴くのだと思い直した。そんなふうに忙しくなる自分が嫌だった。
返信を三分待った。五分はわざとらしい気がした。
〈べつに、暇なときでいいよ〉
送ったあと、枕に顔を押しつけた。暇なときでいいわけがなかった。
翌朝、通勤電車で彼から届いたのは、曲の感想ではなく、途中のギターの音を真似した、ひどく短い文字列だった。わたしはそれを小声で読んでしまった。
隣の人がこちらを見た。口元を手で隠して、もう一度読んだ。
彼の歯ブラシを買った日も、別に何かを決めたわけではなかった。
泊まるたびに買うのはもったいないから。そう言って、二本入りを買った。片方はわたしが使うことにした。同じ色で見分けがつかず、彼は自分の持ち手に油性ペンで点をつけた。数日で消えた。
「どっちだっけ」
「点がついてたほう」
「有益な情報だね」
彼はそういう、たいして面白くないことを、丁寧な顔で言った。
日曜日、洗濯機の前で彼がわたしの靴下を片方持っていた。
「これ、いつも片方足りなくない?」
「そういうものだから」
「靴下って?」
「生活って」
彼は納得したふりをして、洗濯機の蓋を閉めた。
わたしは彼のTシャツを借り、彼はわたしのマグカップでコーヒーを飲んだ。物がどちらのものか、だんだんわからなくなるのが嬉しかった。
彼には彼の部屋があった。仕事の本や大きな机はそちらにあって、平日は帰ることも多かった。それでも、冷蔵庫を開ける前に断らなくなった頃には、わたしはもう、この部屋をひとりの部屋だと思っていなかった。
朝ご飯を食べながら、いつものようにイヤフォンを分けた。
スマホは二人の皿の間。彼は右耳、わたしは左耳だった。彼が少し大きいと言うので、音量をひと目盛り下げた。
「こっち、ギターばっかり」
「こっちはちゃんと歌ってる」
左右を交換すると、さっきまで聴こえなかった音があった。彼は目を丸くして、もう一度交換したがった。
バターのついた指で触ろうとしたので、手首を叩いた。
「厳しいなぁ」
「洗って」
彼はイヤフォンをつけたまま台所に立った。わたしがスマホを触って曲を変えると、向こうで「あ、それ好き」と声がした。
お湯が出るまでのあいだにも、彼は調子の外れたまま、テキトーなラップを歌っていた。
午後は出かけるつもりだったのに、結局、二人とも床に座っていた。彼は本を読み、わたしは次の休日に行きたい場所を調べていた。いい場所を見つけると、画面を向ける。彼は本から顔を上げて、うん、と言った。
行かないままになった場所も、たくさんあった。
「この先、どうなるんだろうな」
彼が本を閉じて言った。
「とりあえず洗濯物は乾くんじゃない」
「そういう先じゃなくて」
「わかってるよ」
笑わせたかった。実際、彼は笑った。わたしも笑って、足を彼の膝に載せた。
「今日、何もしてないね」
「洗濯した」
「それ以外」
彼はしばらく考え、わたしの爪先をつまんだ。
「一緒にいた」
それで十分だった。あの日は、本当に。
夜、彼が帰るとき、明日の朝は早いから、と言った。わたしは玄関まで送った。
「寂しい?」
「だいじょうぶ」
すると彼は靴を脱いで戻り、もう十分だけいてくれた。わたしは時計を見ないようにした。
土曜日に見に行くはずだった机を、彼は金曜日に注文した。
仕事で使うものだから、自分で決めるのは当然だった。ただ、わたしは一緒に見に行くために、土曜日を空けていた。
「配送、早いんだね」
彼のスマホに出ていた注文画面を見て、それだけ言った。
「来週には届くって」
「よかったね」
思っていたより冷たい声が出た。彼は画面を消した。
「何か怒ってる?」
そこで、楽しみにしていた、と言えばよかった。まだ言えた。でも聞かれて初めて認めるのは、負けるような気がした。
「別に。わたしの机じゃないし」
彼が小さく息を吐いた。その息が、謝られるより嫌だった。
「この色、いいって言ってたじゃん」
「一緒に見てからって話だったでしょ」
彼は黙った。
二つの部屋に、二つの机。彼はこれからも、そこを行ったり来たりするつもりなのだろうか。わたしはそのことも聞きたかった。でも机ひとつの話から持ち出せば、急に重たい人になる気がした。
わたしはイヤフォンを耳に入れた。音楽を選ぶふりをした。
実際には何も再生していなかったので、彼が冷蔵庫を開け、閉め、また開けた音まで聞こえた。
「何か買いに行く?」
聞こえないふりをした。
もう一度言ってほしかった。
彼は肩に触れた。わたしはようやくイヤフォンを外した。
コンビニで彼が選んだのは、ひどく甘そうな新商品のアイスだった。ひと口もらって顔をしかめると、彼は嬉しそうに笑った。
「怒ってても、それは同じ顔なんだ」
わたしは肘で彼を押した。今度は自然に笑えた。
帰り道、彼の袖をつかんだ。彼は手を握り直した。
机の話はしなかった。今夜を台無しにしたくなかった。
寝る前に、彼が小さな声で、ごめん、と言った。
「何が?」
「今日」
「今日全部?」
彼が笑ったので、わたしも笑った。
何に謝ってくれたのか、聞かなかった。
彼女の最寄り駅で降りたのに、僕は反対側の改札を出た。
川を回って歩けば、二十分ほど長くかかる。遅くなるなら連絡したほうがいいと思い、〈もうすぐ〉と打った。まだ着きたくないことを、隠すための連絡になった。
イヤフォンは、つけたままだった。
電車の中から、何も聴いていない。耳をふさいでいると、考えているような顔をしなくても済んだ。
今日は仕事で、やり直したものをもう一度やり直した。帰り際に、週明けまででいいと言われた。週末にやれということなのか、本当に週明けでいいのか、確かめられなかった。
彼女に話すほどのことでもない。
そう思って、話さなかったことがいくつもあった。彼女には、僕が何も気にしていないように見えるらしかった。
この前の机も、早く片づけたかっただけだった。注文した瞬間は、これで土曜日は別のことができると思った。彼女が店を調べていたことを、怒られてから思い出した。
怒られた、という言い方も少し違う。僕は、言葉にされていない部分まで責められたように感じて、先に疲れてしまった。
スマホが鳴った。彼女だった。イヤフォンのマイクで答えると、自分の声がやけに近く聞こえた。
「今どこ?」
「歩いてる」
「何かあった?」
川の水面に街灯が細かく揺れていた。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
今はもう少し、何も答えずにいたかった。
「来なくてもよかったのに」
彼女が言った。
そこで、じゃあ今日は帰る、と言うこともできた。でも彼女が少し黙ってからその言葉を言ったので、僕は帰れなかった。
「いや、もう近いから」
僕が来ることで彼女が安心するなら、それでいいと思った。同時に、着いたら明るくしていなければと思った。
電話を切り、片方だけイヤフォンを外した。
コンビニの窓に映った顔は、不機嫌そうだった。口元を動かしてみた。何をやっているんだろうと思って、今度は本当に少し笑った。
彼女の部屋の明かりが見える角まで来ると、残りの片方も外した。ケースへ戻すと、二つとも充電のランプがついた。
彼が来たとき、用意していたお茶は冷めていた。
温め直そうとすると、そのままでいいと言った。いつもなら横に座るところを、彼はテーブルの向かいに座った。鞄を下ろした場所がそちらだったからかもしれない。
「仕事、忙しいの?」
「まあ、普通」
普通より忙しいのか、普通に疲れているのか、聞けなかった。
話をしなくても一緒にいられることを、前は嬉しく思っていた。今は、彼がカップを置くたび、次の言葉が来るかと思った。
窓の近くに干したシャツの袖から、一滴だけ水が落ちた。脱水が足りなかったらしい。床を拭いて戻ると、彼は目を閉じていた。
わたしはスマホを取った。
「これ、覚えてる?」
最初に一緒に聴いた曲だった。白いイヤフォンの右側を差し出すと、彼は少し体を起こして受け取った。
彼は向かいに座ったまま、耳に入れた。わたしが椅子を寄せると、彼はカップを少し脇へ動かした。
歌が始まった。あのときはホームだった。彼のコートの袖に、雨の跡があった。そのときも今も右耳に渡していることに気づき、わたしは小さく笑った。
彼が何か言った。
「え?」
曲を止め、左のイヤフォンを外した。
「いや」
「何?」
「今日は、早めに帰ろうかなって」
わたしは、そう、と答えた。
彼は右耳につけたままだった。わたしは外した左側を、掌の中で握っていた。
「明日も早い?」
「少し、家のこともあるし」
その家には、わたしはいない。
そんなふうに受け取る自分が嫌で、笑おうとした。うまくできず、スマホの画面を伏せた。
「もう少し、いてくれない?」
彼は顔を上げた。
「何か話すとかじゃなくて、いいから」
言ってから、話したいことはあったのにと思った。たくさんあった。それを全部なくせば、今夜はいてもらえる気がした。
彼はうなずき、イヤフォンを外した。
二人で別々のカップを持っていた。時計の針が進む音がした。彼の目が時計へ向かうたび、わたしは気づかなかったふりをした。
結局、彼は最終の電車で帰った。
玄関で、平気?、と聞かれた。
だいじょうぶ、と答えた。
彼は靴を履いたまま、わたしの頬に触れた。
前は、靴を脱いでもう少しいてくれた。
今夜は、そのままドアが閉まった。
わたしから別れの話をしたのは、昼間だった。
ファミレスの窓際で、彼が水を飲むのを見ていた。隣の席では子どもがスプーンを落とし、父親らしい人が椅子の下を探していた。
「来てほしいって言わなかったら、来なかった?」
何度か、別の言い方にして飲み込んだ質問だった。
彼はすぐには答えなかった。
「そんなことはないよ」
「でも、来たら帰りたくなるんでしょ」
「いつもじゃない」
わたしはうなずいた。いつもではないことは、わかっていた。
もっと一緒にいたかった、と言った。彼は、少しひとりになる時間が欲しかった、と言った。初めて聞く言葉ではなかった。初めて、相手が言い終わるまで黙っていた。
それから、また同じことをすると思う、と彼が言った。
わたしにも、その続きを否定する言葉がなかった。
もっと早く話していたら、と考えた。でも、その前の晩にもわたしたちは、この店に何時に集合するかで、相手の返事を待ちながら腹を立てていた。
帰りに、レジで別々に払った。彼が先に小銭を出し、わたしが財布を開けるのを待っていた。そういうところは、最後までいつもと同じだった。
部屋に戻ると、彼のカップが伏せてあった。
片づけるために持ち上げた。底の縁が欠けているのに、初めて気づいた。いつ欠けたのか、聞く相手がいなくなってから気づくなんてと思った。
棚にしまうのをやめ、また伏せた。
その夜は両耳にイヤフォンを入れた。隣の部屋の人が笑う声を聞きたくなかった。二人で聴いていたプレイリストを開いて、すぐに閉じた。
知らない曲を流しても、彼が好きそうかどうか考えてしまった。
洗い物をしているとき、彼が置いていった袋から割り箸が出てきた。頼んでいないのに多めに持ち帰る人だった。
そんなことまで思い出させないでほしい。
袋を丸めて捨てた。箸も捨てようとして、まだ使えるので引き出しへ入れた。引き出しを閉める力が強すぎて、上に置いたスプーンが落ちた。
そのタイミングで、なぜか泣けてきた。泣くなら、もっとまともな理由で泣きたかった。
彼のことが好きだったのか。ここに誰かがいることが好きだっただけなのか。そうやって疑うと、幸せだったことまで自分の嘘になる。
違う、と声に出した。
イヤフォンをしたままだったので、自分の声が変に大きかった。
好きだった。彼が、聞き取れなかったふりをして、わざともう一度褒めさせるところも。洗濯物を畳むときだけ妙に几帳面になるところも。言えばよかったことを、いまさらいくらでも思いついた。
十二月になり、近所のスーパーで彼を見かけた。
冷凍食品のケースの向こうで、彼はこちらに気づいたようだった。わたしは手にしていた品物の裏を見た。原材料を読むふりをした。彼が何をしているか、視界の端で見ていた。
彼は隣の通路へ移った。
名前を呼ぶだけだったのに。
帰ってから彼からのLINEを開いた。残っている荷物をどうするかという事務的なやりとりだった。続きを打ち始め、やめた。
〈お互いの荷物、来週で片づけよう〉
それなら送れた。
返事が来るまでのあいだ、わたしは充電ケースの蓋を開けたり閉めたりしていた。右も左もそこにあった。もう彼から返してもらう必要はなかった。
僕の部屋に残っていた彼女の荷物は、紙袋ひとつに収まった。
思っていたより少なかった。借りた本、髪を留めるもの、靴下。探し終えたあとも何かある気がして、同じ引き出しを二度開けた。
彼女には、朝までに、玄関の前に置いておくと伝えてあった。僕の荷物は前の日に取りに行った。袋に入ったシャツは全部洗ってあった。
あれから彼女が泣いたかどうか、僕は知らない。
スーパーで見かけたときは、僕に気づいていないように見えた。声をかけたくて、何を言うのか考えた。元気、と聞かれたら、元気と答えるつもりだった。
それは嫌だと思った。自分が答えるつもりの言葉を、彼女から聞くのは嫌だった。
紙袋には、借りていた合鍵も入れた。
荷物は夕方にはまとまっていた。なのに部屋を出るのを先延ばしにして、結局、彼女の街へ向かう終電に乗った。帰りの電車がないことは、わかっていた。
その夜は、息を吸うと鼻の奥が痛むほど冷え込んでいた。路地の水たまりには厚い氷が張り、靴先で踏んでも割れなかった。
彼女の部屋へ向かう途中、自動販売機でコーヒーを買った。冷たい飲み物の列に、彼女の好きなミルクティがあった。僕はもう一度、小銭を入れた。
彼女はいつも少しずつ飲んだ。僕が自分の分を飲み終えても、まだ半分以上残っていた。持とうか、と手を出すと、大事そうにひと口飲んでから渡してくれた。
取り出し口から二本目を拾って、立ち止まった。今日は飲み物を頼まれたわけではない。それでも、鞄に入れて持っていった。
アパートの外階段には、踏み砕かれた氷が残っていた。足音を立てないように上がった。彼女の部屋の窓は暗かった。
チャイムは押さず、返す荷物の入った紙袋をドアの脇に寄せ、その横にミルクティを置いた。ラベルがこちらを向くように直してから、そんなことをしても仕方がないと思った。
イヤフォンを片方くれた、最後の夜を思い出した。
あのとき僕が最初に言ったのは、少し間を空けたほうがいいのかな、だった。
彼女に聞き返されて、早めに帰ろうかな、と言い直した。
答えを聞く勇気がなかった。彼女に、そうしようと言われるのも、嫌だと言われるのも怖かった。だから彼女に聞こえなかったことを、どこかでありがたいと思った。
彼女は、聞こうとしてイヤフォンを外してくれたのに。
玄関のドアには、下のほうに小さな傷があった。一緒に買って運んだ棚をぶつけた跡だった。僕が謝ると、彼女は、下だから見えない、としゃがんで確かめてくれた。
何もかもがつらかったわけではない。そのことが、今はいちばん困った。
スマホを出し、〈荷物、玄関の前に置いたよ〉と送った。
「電車、大丈夫?」と返ってくれば、もうない、と言える。そのあとで、少し上がっていく?、と聞いてくれるかもしれない。
そんな返事まで、考えていた。
〈好きなミルクティも、荷物の隣に置いてある〉
そこまで打って、消した。送ればまた、返事を待ってしまう。喜んでくれただろうかと、画面を何度も見るだろう。
ドアの前には、紙袋とミルクティだけを残した。
階段を下りた。ドアの開く音はしなかった。
始発までは四時間近くあった。駅前で冷めたコーヒーを飲みきり、灯りのついていた二十四時間営業のいつものファミレスへ入った。
ドリンクバーだけを頼み、鞄を隣の席に置いた。カップを空にするたび、画面を確かめた。〈置いたよ〉の言葉は既読にはならなかった。
二杯目からはお湯にした。少し眠ったつもりで顔を上げても、時計は十分しか進んでいなかった。
僕だけがこんなふうに、何をしても彼女のいる頃の順番で動いている気がした。
イヤフォンを出す。片方のシリコン部分がなくなっていた。ポケットを探しても見つからず、残った側だけ耳に入れた。
曲を流すと、片耳でも思ったよりよく聴こえた。
いつか彼女が、そっちはギターばっかり、と笑った顔を思い出した。正確には、そう言ったのは僕だったかもしれない。
始発の時刻が近づき、店を出た。駅の改札はもう開いていた。ホームへ上がった。
電車を待ちながら、彼女が読んでいた文庫本のタイトルを、ふと思い出した。どんな話、と聞いたことは覚えている。彼女が何と答えたかは、思い出せなかった。
ただ、表紙の文字だけが、今でもはっきり浮かんだ。
始発が入ってきた。空いている耳に、到着を知らせる音楽が入ってきた。
部屋に戻って暖房をつけても、足の先の冷たさがなかなか抜けなかった。
彼女はもう、荷物を取り込んだだろうか。
ドアの前に置いたミルクティも、今頃は凍っているかもしれない。
春になる前に、髪を切った。
気分を変えたかったのではなく、乾かすのが面倒になったからだった。美容師には、どちらでも同じですね、と笑われた。
帰り道、帽子を忘れてきたことに気づいた。店はまだ見える距離だったのに、少し迷ったあと、戻った。
「気づいてよかったです」
帽子を渡されて、わたしもそう思った。
そういうことを、誰かに話したい日があった。彼でなくてもいいと思える日と、彼でなければと思う日が、順番を守らずに来た。
忘れっぽいわたしでも、あの日、凍っていたミルクティのことは覚えている。
好きだった銘柄を、まだ覚えていてくれた。嬉しかった。それから、これを嬉しいと思う自分に腹が立った。
溶けてからひと口飲めるようになるまで待って、ちょっと不味かったことも覚えている。
返事は、〈ありがとう〉と送った。それ以上は何もつけなかった。
帽子をかぶり直し、イヤフォンを入れた。プレイリストを上から流しているうちに、あの曲が始まった。
イヤフォンに触れれば止められた。けれど触れないまま、最初の数秒が過ぎた。
最初のギターの音を、彼の書いた文字で思い出した。
歌は、わたしの覚えていたより早く始まった。途中で一度、音がほとんどなくなるところがあった。こんなところがあったのだと、今さら気づいたと思いながら、最後まで聴いた。
歩道橋の手前で、イヤフォンを外した。階段を上る自分の息が聞こえた。急いでいないのに、ずいぶん速く歩いていた。
途中の踊り場で、下りてきた人と肩がぶつかった。
「すみません」と、相手が足を止めた。
「だいじょうぶです」
わたしは笑って返した。
相手はほっとしたように会釈して、階段を下りていった。
柵に手を置き、その背中を見送りながら、玄関で靴を履いていた彼を思い出した。
「平気?」と聞かれて、あのときもわたしは笑った。
ドアが閉まるまで笑っていられたのに、閉まってから、もう少しいてほしかったと思った。
たぶん、彼の「大丈夫」は、わたしとは逆だったのかもしれない。少し、ひとりにしてほしい。
本当のところはわからない。あのときの彼にしか、わからない。
言わなくてもわかってくれる人だと思った。わかってくれない夜が増えると、気持ちがなくなったのだと思った。
彼が疲れていることを知りながら、試すように黙った夜もあった。
じゃあ全部わたしが悪かったのかといえば、それも違うと思った。言わなかったことだけでなく、ちゃんと言ったのに流されたこともある。
踊り場の柵を握っていた手を離すと、掌に冷たさが残った。
彼には、幸せでいてほしかった。
でも、新しい誰かといるところは、まだ想像したくなかった。
自分勝手だな、と小さく言った。誰にも聞かれていなかったので、訂正しなくて済んだ。
その夜、友人から電話が来た。
「最近どう?」
だいじょうぶ、と言いかけた。
「今日はね、ちょっと寂しい」
と、正直な感情を言ってから、相手の返事を待った。
「そっか。明日、ご飯食べる?」
「今日は?」
友人が笑った。
「今日なら、電話しながらでよければ」
わたしは冷蔵庫を開けた。卵があった。友人のほうでは、お湯の沸く音がした。
彼を好きにならなければよかった、と思った夜は何度もあった。でも今夜、その言葉は出てこなかった。
友人が、新しい部屋の写真をインスタにアップしていた。
窓が大きく、床にはまだ段ボールが並んでいた。端に、恋人のものらしい靴が写っていた。
〈おめでとう〉と打った。
それだけでは素っ気ない気がして、絵文字を選んだ。明るすぎる気がして取り消した。コメントしないまま、ほかの人の投稿を見た。知らない店で笑っている人。買った服を上手に着ている人。みんなが生活を少しも持て余していないように見える。
電車の窓に、画面をのぞき込む自分が映っていた。
わたしは友人の投稿に戻った。
〈おめでとう。窓、大きくていいね。落ち着いたら遊びに行きたい〉
とコメントしてから、少し羨ましかったことを誰かに見抜かれた気がした。でも、遊びに行きたいのも本当だった。
イヤフォンをつけ、最近見つけた曲を流した。
この歌を彼は好きだろうかと思った。たぶん、途中の長い間奏に文句を言う。そう考えて、少し笑った。
誰にも送らず、最後まで聴いた。
駅を出ると、雨が上がっていた。歩道の端に残った水を避けて歩いた。いつもなら通り過ぎる惣菜屋で、ひとつだけコロッケを買った。袋越しに温かかった。
アパートの廊下で鍵を探す。先に白いケースが指に触れた。鞄の底を探っているうちに、センサーの照明が消えた。
わたしは一歩足を動かした。明るくなった手元で、鍵を取り出す。
部屋に入り、イヤフォンを外した。右と左をケースに戻し、蓋を閉める。
友人から返事が来ていた。
〈来て。まだカーテンもないけど〉
わたしは笑って、〈じゃあ昼間に〉と返した。
窓を少し開けると、遠くで誰かが自転車のスタンドを上げる音が聞こえた。換気扇を回し、鍋に残っていた味噌汁を温める。
湯気が立つのを待ちながら、食器棚から皿を一枚出した。
買ってきたコロッケを載せ、味噌汁をよそった。スマホはテーブルの端に伏せた。イヤフォンのケースも、その隣に置いた。
「いただきます」
誰に聞かせるでもない声が、思ったよりはっきり出た。
向かいの席を見た。彼なら、もう食べ始めていただろう。わたしが熱い汁を少しずつ飲むあいだに、皿を空にして、まだ熱いの?、と笑っただろう。
思い出すと、やっぱり少し寂しかった。
わたしはコロッケに箸を入れた。薄い衣が割れて、中から湯気が上がった。ひと口食べた。
まだ熱くて、「あつっ」って言った声が、少し大きかったことに笑った。
