短編小説「Honesty」

私の腕時計は七分進んでいる。
もう何年も前に、遅刻をしないようにと自分で合わせたのだ。最初の数週間はちゃんと効果があった。でも人間というのは、自分のついた嘘にもすぐに慣れてしまう生き物だ。いつのまにか私は時計を見るたびに頭の中で七分を引くようになり、結局のところ、遅刻の回数は前とほとんど変わらなかった。それでも私は時計を直さなかった。どうしてかはわからない。たぶん、直すきっかけがなかったのだ。
その夜、駅に向かって歩きながら時計を見ると、針は十一時四十八分を指していた。つまり本当は十一時四十一分ということになる。終電は十二時四分。駅までは普通に歩けば十一分かかる。
「そんなにゆっくり歩いてたら、俺が乗り遅れるよ」と彼は言った。
「まだ時間はあるよ」と私は言った。
「その時計、また嘘ついてるんだろ」
「七分だけね」
彼は小さく笑った。笑い声は冷たい夜気の中ですぐに形を失って、どこかへ消えてしまった。
私たちはその一時間ほど前に、駅の裏手にある古い洋食屋で、別れることに決めた。今夜駅で手を振って別れる、という意味ではなく、もっと長い意味で。
決めた、というのは正確な言い方ではないかもしれない。どちらかが切り出し、どちらかが頷いた。二つの道のどちらかを選べと言われれば、たぶん私たちは正しい方を選んだのだと思う。少なくとも間違った方ではなかった。ただ、正しいことと、それを受け入れられることとは、まったく別の問題なのだ。冷蔵庫の奥に賞味期限の切れた卵があるとわかっていても、すぐには捨てられないのと同じように。
その洋食屋で、彼はハンバーグを頼み、私はオムライスを頼んだ。二年近く、私たちはその店に来るたびに同じものを頼んできた。メニューを開くのは、要するに儀式のようなものだった。料理が運ばれてくる前に、彼は言った。
「俺たち、少し離れた方がいいと思うんだ」
「うん」と私は言った。私は紙ナプキンを四つに折っているところだった。
それから私たちは、いつもと同じようにハンバーグとオムライスを食べた。デミグラスソースは相変わらずおいしかった。それがいささか不公平なことのように思えた。世界がひとつ終わろうとしているときにも、オムライスはちゃんとおいしいのだ。
彼と付き合い始めたのは一昨年の冬だった。そのあいだに大きな事件は何ひとつ起きなかった。誰かが浮気をしたわけでもないし、どちらかが遠くの街へ転勤になったわけでもない。ただ、少しずつ何かがすり減っていった。古い靴のかかとみたいに、気づいたときにはもう手遅れなくらい斜めになっていた。物事というのは、壊れるときにはたいてい音を立てないものなのだ。
「俺たち、たぶん大丈夫だよ」
半年ほど前、彼はそう言ったことがある。日曜日の午後で、私の部屋のベランダで洗濯物を取り込んでいるときだった。彼はタオルを胸に抱えたまま、何でもないことのようにそう言った。
今思えば、あれは彼なりのやさしい嘘だったのかもしれない。あるいは彼自身がそう信じたかったのかもしれない。どちらにしても、私はその言葉を今でもポケットの奥に入れたまま持ち歩いている。もう使えないとわかっている映画の半券みたいに。
角のコンビニエンス・ストアの前で、彼は立ち止まった。
「何かあったかいもの買っていい?」
「いいよ」
店の中は昼間のように明るかった。蛍光灯の白い光は、真夜中のコンビニエンス・ストアにだけ存在する種類の光だ。そこではすべてが等しく照らされ、等しく少しだけ疲れて見える。おにぎりも、雑誌も、レジの奥でうたた寝をしかけている店員も。
彼はホットのミルクティーを二本買って、一本を私に渡した。私たちは店の前の、灰皿が撤去されたあとの四角い跡の横に並んで立って、それを飲んだ。ペットボトルは手のひらにちょうどいい温度だった。
ふと気づくと、私の指先が小さく震えていた。キャップをうまく開けられずに、二度、三度とやり直した。
「寒いね」と私は言った。
「十月にしてはね」と彼は言った。
彼は黙って私の手からペットボトルを取り、キャップを開けて返してくれた。「ありがと」と私は言った。本当に寒さのせいだったのかどうか、自分でもよくわからなかった。私は昔から、平気な顔をすることだけは得意なのだ。洋食屋で紙ナプキンを折っていたときも、私の指は少しも震えていなかった。震えというのは、どうやら少し遅れてやってくるものらしい。雷の音が、光のあとから届くみたいに。
「ねえ、覚えてる?」と彼は言った。
「夜中の二時に、変なメッセージ送ってきたこと」
覚えていた。付き合い始めて間もない頃だ。眠れなかった私は、二時十三分に彼にこう送った。
「冷蔵庫に期限切れ間近の牛乳が一本余ってる」
返事は一分後に来た。
「それ、来てほしいって意味だろ」
私は否定しなかった。否定のしようがなかったからだ。その夜、彼は本当にタクシーでやって来て、私たちは台所の床に座って、余っていた牛乳でココアを作って飲んだ。
「沙耶って、いつもそうだったよね」と彼は言った。
「言いたいことをまっすぐ言わないで、冷蔵庫とか、天気とか、そういうものに言わせるんだ」
「そうかもしれない」
「俺、あれを訳すの、けっこう得意だったんだよ」
「知ってる」
彼はミルクティーを一口飲んで、それから時計を確かめるみたいに空を見上げた。
空には時計も星もなかった。ただ街の明かりを反射した、ぼんやりとした灰色が広がっているだけだった。
「もう遅いね」と彼は笑った。
遅い、というのが時刻のことなのか、それとも別の何かのことなのか、私にはわからなかった。いつもなら訳してくれるのは彼の方だった。でも今夜、彼は何も訳してくれなかった。
本当のことを言えば、私はそのとき彼を引き止めたかった。今日決めたことは全部なしにして、もう一度台所の床でココアを飲もうと言いたかった。でもその言葉は、喉の奥に小さな魚の骨みたいに引っかかって、どうしても出てこなかった。私はそういう種類の人間なのだ。大事なことほど、まっすぐ口から出てこない。
駅の手前には大きな交差点がある。
私たちが着いたとき、信号はちょうど赤に変わったところだった。この交差点の赤信号は長い。たぶん二分近くある。私はいつもそれを恨めしく思っていたのだけれど、その夜だけは、信号機を設計した誰かに感謝したい気持ちだった。
私たちは並んで立っていた。車はほとんど通らなかった。誰もいない横断歩道の向こうで、駅の明かりが静かに光っていた。
「時計、何分?」と彼が訊いた。
「十二時一分」
「じゃあ本当は十一時五十四分だ」
「そういうことになる」
「間に合うね」
「間に合うよ」と私は言った。
間に合わなければいいのに、と私は思った。時計の針が逆向きに回り始めて、十一時になり、十時になり、洋食屋で別れ話を始める前まで戻ってしまえばいいのに、と。もちろん、そんなことは起こらない。時計の針は、どれだけ嘘をついていても、前にしか進まないのだ。
信号が青に変わった。
「じゃあね」と彼は言った。
「うん」
「ちゃんと寝なよ」
「うん」
彼は横断歩道を渡り、一度だけ振り返って小さく手を振り、それから改札の向こうへ消えていった。私は手を振り返したと思う。たぶん。正直なところ、よく覚えていない。
信号はまた赤になった。私は渡らずにそこに立っていた。青になって、赤になって、また青になった。私はそのたびに、何かを待つように横断歩道の白い線を見ていた。何を待っていたのかは自分でもわからない。彼が改札から引き返してくることかもしれないし、自分の口から言葉が出てくることかもしれない。どちらも起こらなかった。
一度だけ、タクシーが私の前で速度を落とした。運転手は窓越しに私の顔を見て、それから何事もなかったように走り去った。深夜の交差点に一人で立っている二十六歳の女というのは、たぶんタクシーの運転手から見てもいささか判断に困る存在なのだろう。乗るのか、乗らないのか。帰るのか、帰らないのか。正直に言えば、私自身にもよくわからなかった。
私はコートのポケットの中で、空になったミルクティーのペットボトルを握っていた。捨てる場所はいくらでもあったのに、なぜか捨てられなかった。それはまだ少しだけ温かかった。
遠くで、終電の発車を知らせるアナウンスが聞こえた気がした。
部屋に戻ったのは十二時半過ぎだった。本当は十二時二十数分だ。
ドアを開けると、彼の匂いがした。正確に言えば、彼が選んだ柔軟剤の匂いだ。私は昔、洗剤も柔軟剤もいちばん安いものを適当に買っていた。でも彼が「これがいい」と言ってラベンダーだか何だかの柔軟剤を買ってきてから、私の部屋のタオルも毛布もシャツも、全部その匂いになった。
「この部屋に来るとさ、自分の家に帰ってきたみたいな気がするんだ」
いつだったか、彼はそう言ったことがある。ソファに寝転んで、私が貸した大きめのパーカーを着ていた。
「それは、あなたの柔軟剤の匂いだからでしょ」
「そういうことじゃないんだよ」と彼は言った。
そういうことじゃないなら、どういうことなのか。私はそのとき訊かなかった。訊いておけばよかったと思う。人生には、そのときに訊かなかった質問がいくつもある。それはどれも、出しそびれた手紙のように引き出しの奥で少しずつ黄ばんでいく。
食器棚には彼のマグカップがあった。洗面所には彼の歯ブラシがあった。ベランダには、彼が育てていたローズマリーの鉢があった。どれも本来なら片付けるべきものだった。それはわかっていた。
でも私はそうしなかった。歯ブラシもマグカップもそのままにして、柔軟剤の匂いのする毛布にくるまってベッドに横になった。世の中には、片付けないことによってしか守れないものがあるのだ。たとえそれが、ただの先延ばしにすぎないとしても。
眠れなかった。
天井を見ていると、どこかで聞いたことのあるメロディーが頭の中で鳴った。彼が台所で何かを作るとき、いつも鼻歌で歌っていた曲だ。曲名は知らない。彼自身も知らなかった。昔ラジオで一度だけ聴いて、それきりメロディーだけが残ってしまったのだと言っていた。私はその曲の続きを知らないし、たぶんこれから先も知ることはないのだろう。それでもメロディーは、消えずに胸のどこかで鳴り続けていた。
二時を過ぎた頃、私は起き上がって台所へ行き、冷蔵庫を開けた。牛乳が一本入っていた。半分ほど残っている。
私はスマートフォンを手に取り、あの夜と同じ文章を打った。「冷蔵庫に期限切れ間近の牛乳が一本余ってる」
送信ボタンを押す前に、私はしばらくその文字を眺めた。それから、ゆっくりとそれを消した。
かわりに、腕時計を外した。竜頭を引いて、針を七分だけ戻した。何年ぶりかで、私の時計は正しい時刻を指した。二時十三分。嘘をつかない時計というのは、思っていたよりもずっと頼りなく見えた。まるで、上着を一枚脱いだあとの肩みたいに。
私はもう一度スマートフォンに向かって、今度は冷蔵庫にも天気にも頼らずに、短い文章を打った。
会いたい。
それだけだった。訳す必要のない言葉だ。たぶん、私が彼に送った中でいちばん短くて、いちばん正直なメッセージだった。
送信して、私は台所の床に座った。あの夜、二人で並んでココアを飲んだのと同じ場所だ。床は思っていたより冷たかった。
しばらくして、画面に小さく「既読」の文字が浮かんだ。
返事はまだ来ない。来るかどうかもわからない。でも私は待つことにした。歯ブラシもマグカップもローズマリーの鉢もそのままにして、柔軟剤の匂いのする部屋で。正直になるというのは、要するに、答えを相手に預けることなのだ。そして預けたものは、待つことでしか受け取れない。
時計の秒針が、正しい速さで進んでいく。
私は牛乳を温めて、ココアを作ることにした。
二人分。
