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2026.10.28

短編小説「Cheeseburger」

Cheeseburger

彼がメニューを開くところを、私は一度も見たことがない。

カウンターの前に立つと、彼はほとんど間を置かずに

「チーズバーガーのセット、ポテトとコーラで」と言う。

店員が「いらっしゃいませ」を言い終わらないうちに、ということもある。まるで生まれる前から、その注文だけは決まっていたみたいに。

その夜もそうだった。時刻は十一時四十分。店の中には、私たちのほかに三人しか客がいない。ノートパソコンを開いている若い男と、文庫本を読んでいる中年の女性と、テーブルに突っ伏して眠っている誰か。天井の蛍光灯がひとつだけ、モールス信号みたいにかすかに瞬いている。

「チーズバーガーのセット。ポテトとコーラで」

予想どおりだった。

私はといえば、メニューの写真を上から順番に眺めている。てりやき、ダブル、期間限定の何とか。どれもおいしそうに見えるし、どれもそれほど食べたいわけではない。目の前に選択肢が並ぶと、私の中の何かが少しずつ後ずさりを始めるのだ。日曜の朝の靴下選びから、部屋の更新の手続きまで、だいたいすべてにおいて。

付き合って三年になるけれど、彼がチーズバーガー以外のものを頼むところは見たことがない。この店でも、ほかの店でも。一度、飽きないの?と聞いてみたことがある。

「飽きるほどのものじゃないから」と彼は言った。

わかるような、わからないような答えだった。今でもよくわかったとは言えない。

特別な夜ではなかった。二人で映画を観て、少しだけ飲んで、私のアパートまで歩いて帰る前にここへ寄る。これまでに何十回も繰り返してきた種類の夜だ。それなのに、何かが小さく引っかかっている。セーターの袖口からほつれた糸みたいに。引っぱったらほどけてしまいそうで、かといって見なかったことにもできない何か。

「お二つでよろしいですか?」

店員の女の子が、私のほうを見ていた。大学生くらいだろうか。疲れた目をしているけれど、声は親切だ。

「えっと」

私は口を開き、また閉じた。

彼女は、彼の注文が表示されたモニターを指さした。助け舟を出してくれたのだ。

「・・・はい」

こうして私は、その夜もチーズバーガーを食べることになった。人生の多くのことは、だいたいこんなふうにして決まる。たいていは、親切な誰かの指先によって。

二階の席は空いていた。私たちは窓際のカウンター席に並んで座る。窓の外では、交差点の信号が誰もいない横断歩道に向かって、律儀に青を灯している。

彼は包み紙をいつもと同じ手順で開く。まず上の折り目、それから左右。そしてひと口目の前に、黄色いチェダーチーズとパティがはみ出している側を手前に向け直してから、バンズを少しだけ持ち上げて中をのぞきこむ。

その仕草に気づいたのは、半年くらい前のことだ。

最初は、ピクルスでも探しているのだと思った。でもそうではなかった。チーズの溶け具合や、パティの焼き目や、ソースのはみ出し方を、時計職人が文字盤の裏を見るみたいに確かめているのだ。それからひと口食べて、少し考えて、スマートフォンに何かを打ちこむ。私が見ていることに気づくと、さっと画面を伏せる。

私は気づかないふりをしてきた。人には、言葉になる前のものをしまっておく場所が必要だから。たとえそれが、チーズバーガーのことであっても。

「今日の映画、どうだった?」と彼が言った。
「よかったよ。最後のほうはちょっとわからなかったけど」
「僕もわからなかった」
「わからなかったのに、よかったの?」
「わからないところがよかった」

彼はチーズバーガーをひと口食べた。私はポテトを一本つまむ。揚げたてで、指先が少し熱い。

「そういえばさ」と彼が言った。
「会社、やめることにした」

あまりにさりげない言い方だったので、私は最初、映画の話の続きなのかと思った。

「え?」
「来月いっぱいで。昨日、上に言った」
「・・・昨日?」
「うん。考えてたのは、もう少し前からだけど」

彼はコーラのストローをくわえて、窓の外を見た。信号が赤に変わる。それでも横断歩道には誰もいない。

「やめて、どうするの」
「商店街のはずれに、小さいハンバーガー屋があるでしょ。緑の看板の」

もちろん知っている。カウンターが七席しかない古い店で、白い髭の渋いおじいさんがひとりで鉄板の前に立っている。

「あそこで働かせてもらう。マスター、七十三歳なんだって。いつか店を誰かに渡したいって、前から言ってて」

彼はスマートフォンを取りだして、伏せていた画面をこちらに向けた。メモに、店の名前と日付と短い感想がびっしり並んでいる。いちばん下の行には、こうあった。

〈百六十三 駅前 いつもの味。基準〉

「百六十三個」と私は言った。
「今日のが百六十三個目」と彼は言った。「同じものを食べ比べないと、違いってわからないから。チーズバーガーは、その店のいちばん正直な味がするんだ」

私は窓の下の、誰もいない横断歩道を眺めた。三年分のチーズバーガーが、頭の中で静かに積み上がっていく。けっこうな高さだ。

「何でもないよ」と彼は笑った。
「べつに大した話じゃない。いつもと同じ夜だよ」

いつもと同じ夜。

たしかにそうなのかもしれない。蛍光灯は相変わらずひとつだけ瞬いていて、チーズバーガーはチーズバーガーの味がした。でも彼はわかっていないのだ、と私は思う。メニューも開かずに何かを決めてしまうことが、隣で見ている人間にとってどういう意味を持つのか。

それに、彼がどうしていつもチーズバーガーを選ぶのか。その答えを、私はたぶん彼より先に知っていた。バンズを持ち上げるあの横顔を、半年も隣で見てきたのだから。

店を出ると、空気は来たときよりずっと冷たくなっていた。

私のアパートまでは、歩いて二十分ほどある。私たちはどちらからともなく歩きはじめた。速すぎもせず、遅すぎもしない速さで。どちらがその速さを決めたのかを、曖昧にしておくための速さ。

「これ」

彼がイヤホンの片方を差しだす。右耳のほうだ。私はそれを受け取って、左の耳に入れた。少し違和感がある。左右が逆なのだ。でも、言わなかった。

知らない曲が流れている。女の人の声で、歌っているというより、すぐ耳元で誰かに話しかけているような声だ。

「これ、誰?」
「知らない。おすすめに出てきた」
「知らないのに聴いてるの?」
「知らないから聴いてる」

いつもの彼なら、イントロの途中でもどんどん次へ飛ばしてしまう。テレビのチャンネルを回すみたいに。でも今夜は、最後の残響が消えるまでスマートフォンに触れなかった。次の曲も、その次の曲も。

私たちは同じテンポで歩いた。コードでつながっているわけでもないのに、片方ずつのイヤホンが、二人の歩幅をそっと揃えている。ゆっくり歩くにはちょうどいいテンポ。

繁華街のはずれを抜けると、ネオンがまばらになる。閉まった店のシャッター、まだ点いている自動販売機、コンビニの白すぎる光。その光と光のあいだを、私たちは並んで歩いていく。

いろんなことがくるくると回る夜だった。何も決めないまま歩いていれば、この夜はいつまでも同じところを回りつづけるのではないか。メリーゴーラウンドの木馬みたいに。上がったり下がったりはするけれど、どこにも行かない。

それでもいいと思った。昔の話も、これから先の話も、今はいらない。ただこうして並んで、ときどき意味のないことを言って笑っていられたら。

でも彼は、私が気づかないふりをしているあいだに、ちゃんと先へ進んでいたのだ。百六十三個のチーズバーガーを、一個ずつ噛みしめて。

夜が深くなっていく。それだけのことだった。

日付はとっくに変わって、街の音が一枚ずつ剥がれていく。彼の言うとおり、何も起きていない、いつもの夜だ。

私は何でもない顔をして笑ってみせた。今さら何を言っても、彼はもう決めてしまっている。上司にも伝えたし、来月には緑の看板の店でエプロンをしているのだろう。わかっている。わかっているふりをして、私は言葉をひとつずつ飲み込んだ。

飲み込みきれない言葉は、小さなかけらになって、コートのポケットに沈んでいく。さっきの店でもらったレシートと一緒に。チーズバーガーセット、二つ。歩くたびに、ポケットが少しずつ重くなっていく気がする。言葉に重さなんてないことは、もちろん知っている。

隣を歩いているのに、私たちのあいだには小さなずれがあった。同じ曲を聴いて、同じ速さで歩いて、同じものを食べた。それなのに、左右逆につけたイヤホンみたいに、少しだけ違う場所に立っている。私はまだ何も決められずにいて、彼はもう選んで、決めてしまっている。

「ねえ」

私は立ち止まった。半歩遅れて、彼も止まる。イヤホンの中では、知らない女の人がまだ歌っている。

「お金とか、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」

彼は笑った。いつもと同じ笑い方で。チーズバーガーを頼むときと、同じくらいの速さで。

「笑わないで」
自分の声が、思ったよりも強く出た。彼が少し驚いた顔をする。

「ちゃんと止まって、聞いて」

彼は笑うのをやめた。通りの向こうを、空車のタクシーが一台、ゆっくりと通り過ぎていく。

「・・・怒ってる?」
「怒ってないよ」と私は首を振った。
「ただ、心配なだけ」

それは本当だった。彼が新しいことを始めるのは、むしろうれしい。心配なのは、彼があまりに簡単に「大丈夫」と言ってしまうことのほうだ。迷わないということは、迷いがないということとは違う。迷う時間を誰にも見せずに、どこかでひとりで済ませてきたということかもしれない。

彼はしばらく黙っていた。それからポケットに手を入れて、また出した。何かを探して、見つからなかったみたいに。

「本当は、けっこう迷った」と彼は言った。
「でも、迷ってるところを見せたら、君まで一緒に迷わせちゃう気がして」
「迷うのは得意だよ、私」
「知ってる」
「だから、そういうのは私に回して。迷うのは私の係でいいから」

彼は少し考えてから、困ったように笑った。今度の笑い方は、いつもと違っている。

「じゃあ、決めるのは僕の係?」
「たまには交代して」
「それは・・・迷うな」

私たちは笑った。夜の真ん中で意味のないことを言って笑うのは、ずいぶん久しぶりな気がする。

アパートの明かりが、通りの先に見えてきた。

イヤホンの中で曲が終わる。彼はやはりスマートフォンに触れない。次の曲が、知らないイントロから始まった。

私はポケットからレシートを取りだした。くしゃくしゃになった、薄い紙。街灯の下で、自分の財布を下敷きにして、それを裏返し、バッグの底から出てきたボールペンで書く。

〈予約 一名 チーズバーガー〉

「なにこれ?」と彼が訊いた。

「最初のお客さん」

彼はしばらくその紙を眺めていた。それから財布のいちばん奥に、お守りでもしまうみたいに大切にしまいこんだ。私のポケットは、それで少しだけ軽くなった。

先の話は、まだしなくていい。来月のことも、緑の看板の店のことも、そのもっと先のことも。いつかちゃんとしなくてはいけない話なのだろう。でも、今夜じゃなくていい。

「ねえ」
「なに?」
「今だけでいいから、隣にいさせて」

言ってから、少しおかしな頼み方だと思った。私はもう彼の隣にいる。今この瞬間も。

「今だけでいいの?」と彼が言った。
「・・・今のところは」

彼は笑って、歩く速さを少しだけゆるめた。私も、それに合わせる。

イヤホンの左右は、まだ逆のままだ。でも、私はやっぱりそのことを言わなかった。逆のままでも、同じ曲はちゃんと聴こえているから。

それにたぶん、緑の看板の店で、彼が鉄板の前に立つようになったら、私もメニューを開かずに決められる。

「チーズバーガーをひとつ」って。

 

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